煙幕

乱れた櫛。はだけた着物を脱ぎ捨て、床に落ちた羽織りを着ると、光珠は自室の中庭へと向かった。客との閨事は仮の間を使い行っていた。使うのは毎回同じ部屋ではあったが、僅かに染み付いた大勢の人間の、薄汚い汚物の匂いが鼻について時々やるせない気になるのだ。

丑の刻。今宵は新月の夜だった。月明かりも、小さな星さえ見えぬ夜空に、空虚な紫煙が立ち昇る。煙管は口直しの様なものだった。肺の奥に溜まったため息を煙に乗せて吐き出す。そうする事で幾分か気が紛れるのだ。気が遠くなる様な長い夜の中、ほんの僅かな間、独りの時間を作りながら、再び客の布団へと戻る。そうして朝日が昇るのをただひたすら待つ。それが日常だった。

変わった事と言えば…

端に置いた蝋燭の灯りに揺れる人影がひとつ。

十日振りだろうか。待ち侘びていた瞬間だった。光珠は背を向けたまま、振り返る事なく人影に問いかけた。

「意外だな。賊っていうのはもう少し忙しない生き物だと思ってたけど…。案外暇なんだね」

「憎まれ口は相変わらずだな…」

楓はしなやかな紅色の髪を靡かせ、軽やかに光珠の隣に腰を下ろした。

角が立つ言い方をしても、楓にはあまり意味が無いという事は、自分でも理解していた。

生温い静寂が二人を包んでいく。光珠は再び煙管を吸い、口に含んだ煙を楓の顔に吹きかけた。ゆっくりと上昇する霧の間から、闇夜に光る瞳がこちらを一心に見つめている。腹をすかせた獣の様な目。この目に見つめらると、いてもたってもいられなくなる。胸の内の何かが蠢いて、喉が渇く。想像してしまうのだ。強引に口付けをされ、ありとあらゆる体液を搾り取られ、骨の髄まで味わい尽くされる感覚を。今まで体験した事の無い快楽への期待。渇望しているのだ。彼という存在に。この感情の名を、自分は未だ知らない。知りたくもない。

光珠は生唾を飲み、笑みを浮かべる訳でも、何か言葉を発する訳でもなく、斜め下を向いたまま再び煙管を口に運んだ。普段は心地よい筈の沈黙に耐えられなかったのだ。ふいに冷えた指先が顎に触れた。一瞬、何が起きたのか分からなかった。楓の唇がゆっくりと重なったのだ。決して強引に口をこじ開け、口腔を貪る口付けではなく、愛おしそうに触れるだけの、包む様な口付けだった。長い睫毛、整った鼻筋、キメの細い肌…。こんなにも楓の顔を間近に見たのは初めてかもしれない。さらに感触を確かめようと、その先を欲した瞬間、唇が離れてしまった。

求めてしまった自分がいた。

光珠は驚いた顔で楓を見つめた。

「違ったのか…?」

楓は何食わぬ顔でこちらの様子を伺っていた。

「別に…驚いただけだよ」

光珠は直ぐにいつもの淡々とした表情へ戻り、無理にその場を取り繕った。

ーこの感情を理解してしまったら、僕は二度と君に触れられなくなるのだろう。耐えられる筈も無いー

空虚な紫煙が、二人の影を覆う。いつの間にか、人影が小さくなり、光珠はただ独り、中庭に力なく佇んでいた。夢か現か。光珠にとってはどちらでも良かった。いずれにせよ、現実は何一つとして変わらない。束の間の休息で見た幻。ただそれだけの事だ。重い腰を上げ、再び仮の間へと歩みを進める。ただ一つ、小さな胸の痛みを残して…

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