弔い

人ひとりがやっと入る小さな小舟で、紺碧の大海原を漂っている。陰鬱な深い闇が、水面からこちらを伺っているのを、私は空虚な眼差しで眺めていた。

先日、長年連れ添った妻がこの世を去った。

淡い陽だまりのような人だった。長い闘病生活の果てに彼女は永遠の安らぎを手に入れたのだ。遺品は何も残ってはいない。病が発覚してから、妻は自ら自分の身辺整理を始めてしまったのだ。お気に入りだった桐箪笥、二人で撮った写真、一緒に揃えた食器、結婚式で着た美しい着物達…。妻の面影を遺すものはもう、あの家には存在しない。唯一残されたのは、今この胸に抱いている薄桃色の小さな小瓶だけ。

陽が差すと、海面が薄い緑に透けて金色の粉が所々に散らばり、単調に繰り返す波の音が永遠の在り方を囁くかのように、静かに鼓膜に響いている。港から随分遠くまで船を漕いできた。妻の最期の願いを叶える為に…。

欲の無い妻が口にした、たったひとつの願い。

「私が死んだら、遺灰は海に撒いて欲しいの」

握った手に力は無く、ガラス細工に似て透き通った瞳に最早私の姿は映し出されていなかったが、その優しい眼差しは真っ直ぐに私を見つめていた。彼女が望んだのは、高度な医療でも、豪勢な墓でも無かったのだ。

小瓶を開けると、真っ白な灰が旅立ちを待ち侘びていたかの様に掌の上で踊り出した。

美しい花々に囲われた君があっけなく灰になった。

もう抱きしめる事が出来なくなってしまったというのに、私はいつまでもそれを胸にかき抱いたまま縋ってしまう。手放し難くてならないのだ。そんな惨めな姿を嘲笑うかの様に、突如として吹き荒れた潮風が、掌の微かな重みを奪っていく。

行ってしまう。

行ってしまう。

滲む視界の中で、柔らかな陽に照らされた君が。輝いて軽やかに宙を舞う。

そうしてひとつ私の頬を撫でながら消えていく。

それは皮肉にも、この世界の何よりも。今まで歩んできた人生のどの瞬間よりも美しいものだった。

輝かしくも空虚な空に両の手を伸ばした。

胸の内に残ったのは、虚しさと、焦げる様な愛しさ。

人は思い出だけで生きていける程強くはない。

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