願い事

男は闇夜の中を必死に駆けていた。右も左も分からぬ暗闇を、息を切らしながら進もうともがいていたのだ。

きっかけはある噂話だった。

丑の刻(午前二時)村の離れにある洞窟に、何でも願いを叶える妖が現れるのだと。昼は何の変哲もないただの祠だが、夜は人通りもなく、明かりも一切無い不気味な場所だ。

そしてもうひとつ。この話には続きがある。ある時噂話を真に受けた女が、無謀にもその洞窟へ向かった後、まるで精気を吸い取られたかの様に干からびた死体となって帰ってきたのだそうだ。それきり、人々は気味悪がってその洞窟には滅多に近付かなくなった。

けれども男には、どうしても洞窟に行かなければならない理由があった。自身の命を引き換えにしてでも叶えたい願いがあったからだ。村人は何を代償にされるか分からぬと何度も引き留めたが、男は聞く耳を持たなかった。まるで火薬を詰めた玉が弾け飛ぶ様に、家を飛び出して行ってしまったのだ。

林を抜け男がその洞窟に辿り着くと、辺りはしんと静まり返っていた。入り口に漂う真っ暗な闇がゆっくりと手招きを繰り返している。生唾が喉を下る音が自分でも分かった。高鳴る鼓動をひた隠しにして。意を決して洞窟に飛び込んだ瞬間、男は方向感覚を失った。今し方踏み込んだはずの出口はどこへともなく消えていたのだ。

「おい!誰かいないのか!」

大声で叫んでも、虚な空間が音を噛み砕くだけ。何の意味も為さなかった。じわじわと肌を伝う冷気が、体温を奪っていく。

ー急がなければ…!!

男は強引に自らの頬を叩くと、闇雲に足を進めた。どちらに向かっているのかまるで分からなかったが、足先から立ち昇る恐怖に囚われてしまわぬ様、ただただ歩き続けた。道に迷わぬようにと、途中袖を千切って地面に投げたものの、少しすると布はどこかへ消えていくのだった。

それからどのくらい経っただろうか。

ーもう随分と歩いた筈なのに。一向に出口が見えん。

男はとうとう力尽き、その場に崩れ落ちてしまった。激しい喉の渇きと、頭痛が身体を襲った。長時間無理をした所為で脱水を起こしていたのだ。冷えた地面が熱を奪っていく。指先が痺れた様な感覚に、男は絶望した。

ーこれまでか…。

変わらず先の見えぬ暗闇に、さじを投げかけたその時だった。うっすらと遠くに、紫煙が漂っているのが見えた。煙はゆらゆらと宙を舞っては、どこへともなく消えていく。

「おや…人間のお客とは珍しい」

ふいに頭上で声がした。

慌てて目の前を見ると、そこには奇妙な白服に身を包み、真っ白な面を被った者が立っていた。枯れ枝の様に干からびた褐色の手、ぼんやりと淡い光を滲ませる身体。一目で分かった。妖だと。男は目に大粒の涙を浮かべながら声をあげた。

「助けてくれ!妻が…妻が病で死にそうなんだ!医者もさじを投げ、村人達も見捨てる始末。もう随分呼吸も浅くなってしまった。お前は願いを叶える妖なのだろう。妻が死ねば、俺は独りになってしまう。頼む!妻を助けてくれ!」

男は妖の膝に縋り付き咽び泣いた。

「ならぬ」

悠長に煙管を蒸しながら、妖は淡々と告げた。

「何故?」

「強欲な人間よ…。人は本来死ぬ為に生きる者達だ。己の都合で他人の生き死にを左右してはならない」

「そんな…」

男は愕然とした。天涯孤独の身で手を差し伸べてくれたのは妻だけだった。どんな時も一緒だった。ずっとずっとこれから先も、生涯を共にすると誓っていたのだ。それなのに、こんなにも善を尽くしてきた妻が病で死ななければならない。神など。どこにも居ないではないか。そんな行き場の無い怒りが身体中を這った。

「それでも、妻を失うわけにはいかない。頼む、願いを叶えてくれ。何を犠牲にしても構わない」

男は充血しきった鋭い眼光で妖を睨みつけた。

「ほう…?」

仮面の下に隠れた唇が、鋭い牙を露わにしながら不気味な弧を描いていた。

「ならば相応の対価を頂くとしよう」

「何を差し出せばいい」

ー何でも良い。最早この身を投げ打っても構わない。それで妻が助かるのなら…。

妖は鋭い爪で男の胸を指さした。

「良心」

「なんだ、そんなもので良いのか」

男は安堵の表情を浮かべた。

「ああ。願いは確かに聞き届けた」

妖はそう言うと、奇妙な笑い声をあげながらどこへともなく姿を消した。気が付くと、歪んだ空間は瞬く間に消え、元いた洞窟の入り口に立ち尽くしていた。

一今のは…何だったのか。

「いけない!妻が…」

男は咄嗟に村へ駆け出した。今の所、特に身体に異変は無い。本当に、妖は願いを叶えてくれたのだろうか。もし嘘だったのなら、今までの努力が全て水の泡になってしまう。最悪の場合、妻の最期にも間に合わないかもしれない。一刻も早く戻らなければ。

男がようやく村へ辿り着くと、相変わらず村人達は酒を酌み交わし、妻の存在など最初から無かったかの様に他愛もない話で盛り上がっていた。

「何だ…何も変わらないじゃないか…」

家路を急ぐと、玄関に灯していた筈の明かりが消えていた。背筋が凍った。妻の身に何かあったに違いない。具合が酷くなったのか、誰か忍び込んでしまったのか。妻は自力で起き上がる事もままならない非力な身。このままでは取り返しのつかない事になりかねない。

男は閉まっていた扉を乱雑に開けた。

「お前!無事か!?」

返事の変わりに、部屋の奥から何やら不自然な物音が聞こえた。まるでひき肉でも掻き回している様な、奇妙な音だった。

そうして不審に思った男が一歩踏み出したその時。足元にじわりと生暖かい液体が滲んだ。生臭い錆びた鉄の香り。ぼんやりと夜目に馴染んだ視界が捉えたそれは、紛れもなく赤黒い鮮血だった。

「うわぁぁっ」

あまりの衝撃に、男は尻餅をついた。後から後から鮮血が床を這っていく。

「あなた…?」

ふいに頭上で妻の声がした。見上げると、黒い髪が不自然に腰まで伸び、唇を真紅に染めた妻が佇んでいた。右手には、崩れた人間の腕がきつく握られていた。

「お前…」

「あなた…私一体どうしてしまったのかしら」

そう言いながら、無心に肉を貪り始めたのだ。

妻は人では無くなっていた。

あんなにも土気色だった顔が、血色の良い艶肌へと変わり、か細い身体はふっくらと丸みを帯びた肉付きの良い身体へ。ざくろの様に生え揃っていた小さな歯は、先程の妖と瓜二つの鋭い牙へと変わった。非力で優しかった妻は、血塗られた美しい化け物へと変貌を遂げたのだった。願いは歪んだ型で叶えられてしまった。

「ごめんなさい…ごめんなさい…」

肉を食べ終え我に帰った妻は、顔を覆い泣き崩れてしまった。人で無くなった自分など、誰が愛するというのか。小刻みに震える背中が、そう酷く訴えているように見えた。男は徐に立ち上がると、妻の身体を優しく抱き留めた。

「いいよ。お前が生きていてくれるなら」

男は卑しい笑みを浮かべた。

ーそう。妻を見放した村人など死んでしまえば良いのだ。

ずっと憎らしかった。自分を酷く蔑み、病を患った妻をこの薄汚い小屋に隔離し、冷たい態度へと一変させた者達の事が。これは当然の報いだ。

男はたかが外れた様に、人目を盗んで村人を殺しては遺体を妻に食べさせた。妻は人を口にする度泣いた。時に抵抗して固く閉じた口を無理にこじ開け、肉片をねじ込む事もあった。妻が生きていくには仕方の無い事。いつの間にかそれが口実になっていた。本当の化け物は一体どちらなのか。

それから暫く経った後。

男がいつもの様に死体を持って帰ってくると、妻は自らの腹を切り、静かに横たわっていた。

「お前!何て事を!」

「あなたは変わってしまったわ…」

妻は寂し気な表情を浮かべると、それっきり動かなくなってしまった。

男は身体を硬直させた。涙を流せなかったからだ。

ー良心。

ふいに妖の言葉が脳裏を過った。

「あ…ああ…」

その時初めて理解した。自分が何を引き換えにしてしまったのかを。何の感情も湧かぬ胸を、ひたすらに掻き毟った。こんな時でさえ、笑みを浮かべる事しか出来ないのだ。日の沈みきった薄暗い部屋には、空虚な紫煙が漂ってる様に見えた。

それから男はどこへともなく姿を消してしまった。その後を知る者は、誰一人としていない。

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